オババのトラベルジャーナル

社会生活からリタイアした有閑オババの隠居旅。ちょっと素敵なお宿に泊まって、のんびりお城や神社を巡ります。

唐津で休憩

平戸から帰る途中に、佐賀県唐津市に立ち寄り、

唐津城」を訪れた後、「うなぎ竹屋」で昼食をとりました。

 

唐津城」も

 

「うなぎ竹屋」も、

 

以前訪れた時に、こちらのブログでアップしていますので、その時以上のことは何も書くことがないのですが、

はい、そうです。次の旅行までのつなぎ記事です。

 

実は唐津城には、もう一度行かなくてはいけない理由があったのです。

唐津城はオババが「(続)100名城スタンプ」を集め始めて、最初に訪れたお城でしたが、

初めてだったもので、どれが「続100名城スタンプ」か分らなかったのですよね。

で、間違えて普通の記念スタンプを押してしまって(しかも2つも)、

今回、正しい「続100名城スタンプ」をゲットしに行ったというわけです。

 

ほらね(笑

赤いスタンプが今回押した正しいもので、残り2つの青いスタンプが前回間違えて押したものです。

 

これを見ると、オババのスタンプ集めは、昨年の3月22日にスタートしたのですね。

もう少し早くスタンプを集め始めていたら、他にももうちょっとたまっていたのにと残念です。

特に「首里城」や「今帰仁城」なんて、(お船で行かない限り)もう行くこともないでしょうし。。。。

 

で、話を戻して、元々唐津城には天守がありませんでした。

ですのでこれは昭和に建てられた観光用の模擬天守

唐津城は、秀吉の死後、廃城となった「名護屋城」の廃材を利用して作られたこともあり、

模擬天守を作る時は、秀吉が朝鮮出兵の拠点とした「名護屋城」をイメージしたのだそうです。

 

今回はスタンプを押しただけで、天守の上までは登りませんでしたが、

唐津城が建つ丘の上から眺める景色は、とても気持ちが良いです。

 

ちなみに、これが前回の天守から眺めた景色です。

 

無事、目的のスタンプを押したので、商店街の方に出て、「竹屋」さんの鰻を食べに行きます。

 

趣ある建物は、大林宣彦監督の「花筺」のロケでも使用されましたが、1923年に建てられ、有形文化財に指定されています。

 

そして、いつもいただく鰻丼をお願いしましたぁ〜。

蒸さずに、炭火で直焼きにしているこちらの鰻は、とにかく香ばしいの!!

鰻が好きで、いろいろなお店で食べていますが、オババのおすすめNO1の鰻です。

(味はちょっと濃いめです)

 

唐津城」や「うなぎ竹屋」については、過去のブログで詳しく紹介していますので、これ以上はやめておきますね。

 

日本100名城「平戸城」

相方さんに誘われて、「平戸城」に行って来ました。

 

平戸藩主の松浦氏については、少々断片的な知識がありますので、時代が遡ったところからの話になりますが、

平安時代から戦国時代にかけては、「松浦党」という水軍として力を持っていました。

この「松浦党」は、壇ノ浦の戦いや蒙古襲撃でも活躍しています。

元々は、平家側の水軍だったようですが、壇ノ浦の戦いで源家側についたようです。

 

やがてその「松浦党」の一族であった平戸松浦氏が戦国大名として成長し、

関ヶ原の戦い以降は外様大名として平戸藩を治めました。

 

1599年に、平戸藩の初代藩主である松浦鎮信(平戸松浦氏26代当主)が、「平戸城」の前身の「日の岳城」を築きました。

ところが幕府に気を遣って、鎮信自身が、できて間もないお城を焼き払ったと言われています。

 

その後1704年、5代藩主松浦棟の時代になって、日の岳城跡に「平戸城」の築城に着工し、

1718年に完成しています。

 

その時のお城は廃藩置県で廃城となり、現在の天守は昭和37年に復元されたものです。

 

駐車場から階段を登り、

 

地蔵坂櫓を見上げながら、

 

北虎口門から入ります。

この北虎口門は現存建物です。

 

ショップになっているようですが、狸櫓。

この狸櫓も現存建物です。

 

さらに階段を上って櫓門をくぐると

 

天守が現れます。

中は体験を取り入れた資料館になっています。

天守の上からの風景です。

 

これは見奏櫓。

 

そして懐柔櫓。

実はこの懐柔櫓は、1日1組限定で、宿泊することができるのですよ!!

オープンした頃は、1泊60万円とかニュースで言っていたように記憶していますが、

今見たら、1泊2食付き110万円なんて出ています!!

ウ〜ン・・・この高騰・・・やはりここもインバウンド向けなのでしょうね。

 

あと、松浦氏についてもう一つ。

9代藩主松浦清の子供に愛子がいて、この方は公家の中山家に入り、慶子を出産します。

この慶子が、孝明天皇に仕えて、明治天皇を出産します。

つまり、松浦氏は皇族とも繋がりがあるということですね。

 

100名城スタンプを押し、

 

御城印を購入しました。

 

翌日は、海沿いの国道204号線を通ってゆっくり帰り、

 

松浦党」発祥の地の松浦市の調川道路公園で、「松浦党」をモチーフにした大きな兜のモニュメントを見て帰りました。

 

日本100名城「大分府内城」

9月に入りましたね。

まだまだ残暑が続くと言われていますが、酷暑の中にも、そろそろ次の季節に移ろうとしているような気配が、空や空気に感じられます。

8月初旬の別府旅行の最後の記事になります。

 

別府から帰路につく前に、大分市街の中心部にある「大分府内城跡」に立ち寄りました。

 

「大分府内城」は、1597年、石田三成の妹の夫にあたる福原直高によって、秀吉の命で築城されました。

その時は、望楼型の三重の天守が築かれたそうです。

 

関ヶ原の戦いの後、竹中重利によって、天守を四重の層塔型にするなどの大改修が行われ、現在の形になったそうです。

 

その後何人か城主が入れ替わりましたが、1658年から廃藩置県までの200年間、(大給)松平家が支配したようです。

 

府内城の玄関口である「多聞櫓門(大手門)」。

空襲で消失し、昭和41年に復元されたものだそう。

 

現在、府内城址は長期間にわたる整備中のようで、

 

敷地内にある小さなプレハブの建物に資料が展示され、

常駐の職員さんが、詳しく解説してくださいました。

 

天守は1743年に消失し、その後再建されていないそうですが、

野面積みの天守台はしっかり残っています。

 

これは西の丸と山里丸を結ぶ廊下橋で、平成7年に復元されたもの。

復元には、古絵図にあった大手門の廊下橋を模したそうです。

 

多分これが人質櫓です。

1861年に再建されたものですが、江戸時代の建物は、宗門櫓とこの人質櫓のみなのだそう。

 

本丸の石垣。

 

東丸の復元された二階櫓。

 

お城の周りをグルッと周り、

大手門で100名城スタンプを押して帰路につきました。

 

(御城印の販売はないようです)

 

続日本100名城「佐伯(さいき)城」・・・を下から眺める

臼杵から、さらに20kmほど南に下ると佐伯です。

九州人のオババですが、今回の旅行で初めて、佐伯が“サエキ”ではなく“サイキ”だと知りました。

 

佐伯城は、関ヶ原の戦いで2万石を与えられた毛利高政によって、1606年に築かれました。

標高144mの八幡山の山頂に築かれた総石垣の山城です。

3重の天守に、2重櫓が5基ありましたが、1617年に本丸と天守が消失し、その後天守は再建されなかったそうです。

 

佐伯市のHPからお借りしました)

 

1637年、3代藩主の高尚の時に、麓に三の丸が増築され、居館になったとのこと。

以後藩政の場が山頂から麓の三の丸に移されます。

 

これは1832年に改築された三の丸櫓門です。

 

で、この門から右上方にグググ〜っと見上げた山の頂上に、天守があったようです。

なんと言っても山城ですからね。

 

再び佐伯市のHPからお借りしたものですが、

そう。天守台までは“登山”なのです。

 

登山道は4コースあるようで、三の丸から入った「登城の道」が、かつて使用された道なのだそうです。

片道20分ほどとのことですが、汗を拭きながらハァハァ言って降りて来られた方にお話を伺うと、前日の雨で非常に滑りやすかったとのこと。

 

ということで、軟弱者のオババたちは、三の丸櫓門や、

 

周囲の石垣を見ただけで登らずじまい。

またもや、ここまで来ておきながら、山頂を見上げただけでした。

 

三の丸櫓門の前にある佐伯市歴史資料館で

 

スタンプを押し、

 

その横に設置された13代当主毛利高範の屋敷「毛利家御居間」を拝見。

 

三の丸櫓門からのお城沿いの通りは、石垣の白い壁が連なり、

 

風情のある武家屋敷街になっています。

 

この通りに、国木田独歩館があります。

国木田独歩は、英語教師として佐伯に来ています。

この屋敷は、国木田独歩が下宿していた坂本邸で、元々は11代藩主毛利高泰の別荘だったとか。

坂本家は、藩の重臣の家系だったそうです。

 

同じ通りに佐伯市の「城下町観光交流館」があり、こちらで御城印を購入しました。

観光交流館は、かつての旅館を交流や観光情報発信の場として解放しています。

御城印を購入して喫茶室でひと休みしようとしたら、マンホールカードをくださいました。

旅先で、マンホールの写真を撮っていらっしゃる方がいるのは知っていましたが、

こういうカードもあるのですね。

 

 

続日本100名城「臼杵(うすき)城」

別府から南に50kmほど下ったところに臼杵市があります。

国宝の「臼杵大仏」で臼杵をご存じの方も多いのではないかと思います。

 

1562年、臼杵湾に浮かぶ丹生(にう)島に、「臼杵城」の前身である「丹生島城」が築城されましたが、

築城したのが、大名キリシタンとして教科書にも登場する大友宗麟です。

 

大友宗麟(=義鎮)は、家臣の反乱を避けるために、大分府内から臼杵に移り、丹生島を干拓して、城下町を築いたとされます。

城下には多くのキリスト教の施設が作られ、城内には礼拝堂もあったそうです。

 

この辺りについては、宣教師たちの記録にもいろいろ残っていて、

1586年に島津軍が攻撃してきた際には、城下や近隣の領民たちを城内に避難させたなどの記述もあるそうです。

 

島津軍の攻撃には、ポルトガルから入手した大砲も使われました。

(これはレプリカです)

 

大友氏の滅亡後は、福原氏や太田氏が入城し、三の丸を整備し、31基の櫓と7基の櫓門が設けられたとされます。

 

さらに関ヶ原の戦い以降は、稲葉氏が入城し、現在の姿になったようです。

 

こちらは二の丸跡の景観。

前回書きましたが、臼杵城址に到着し、最初にこの写真を撮っていたときに、

それまでの「界 別府」の写真を全部消去してしまったのです(涙

 

下から見えていたのが「畳櫓」。

現存櫓で、1階と2階の床面積が同じ「重箱造り」が特徴。

 

中門跡。

 

そこから見下ろす城下町。

 

二の丸への玄関口でもあった「大門櫓」。

 

会所櫓跡。

 

時代時代の石垣を見て回るのも楽しいですね。

 

公園のグラウンドの奥に見える緑の茂みが「本丸跡」になります。

本丸の方が二の丸よりも低く、最近の発掘調査では、大友時代には、本丸と二の丸が逆の位置(本丸が高い位置)にあったことも分かったそうです。

福原氏時代に入れ替わり、本丸が低くなった分、天守台の石垣を高くしたのだそう。

 

・・・と、グラウンドを挟んで本丸のことを書いていますが、

ご推察のとおり、根性なしのオババたちは、臼杵まで来ておきながら、

強い陽射しの中、グラウンドを横切る元気がありませんでしたぁ。

 

でありながら、しっかりスタンプを押して、

 

御城印を購入しました。

 

続日本100名城「福江城」と「五島氏庭園」

五島での2日目は、ツアーを離れての単独行動をしました。

オババにとっては、小型船で島々を巡って教会を訪れるよりも、せっかく五島まで来たのですから、「福江城」に行っておきたかったのです。

 

ホテルにタクシーの手配をお願いすると、誤って観光タクシーが手配されていました。

せっかくなので、運転手さんに周辺を案内してもらいながら、一緒に福江城を観光し、海岸線を通ってホテルまで送ってもらいました。

 

「福江城」は、“江戸時代最末期に完成した海城”として知られています。

 

福江藩は、藩主の五島氏の居城であった江川城が火災で焼失したのち、

何度も幕府に築城許可を願い出ていましたが許されませんでした。

ところが幕末になって、外国船の来航が盛んになると、

防衛の面から、慌てて築城許可が出されたというわけです。

 

防衛目的であった「福江城」は、日本で唯一、三方を海で囲まれた海城だったとのことです。

しかも1863年の完成ということで、日本で最も新しいお城だとも言われています。

ねっ、ツアーの教会巡りよりも行ってみたかったというのも納得でしょ。

 

ようやく完成した福江城でしたが、まもなく明治を迎え、あの廃城令によって、わずか9年で解体されてしまいます。

 

現在は、裏門であった「蹴出門」と、

 

石垣などが残っています。

 

現在本丸跡は、県立五島高校の敷地になっています。

 

本来、高校の敷地内には入れませんが、タクシーだから大丈夫ということで、敷地内に入り、車内からこちらの写真だけ撮らせてもらいました。

 

二の丸跡には、福江城を築城した第30代藩主の隠居処が建てられ、

「五島氏庭園」として、当時のままの姿で保存されています。

 

心字池を中心にした庭園があるお屋敷で、

グルッと池の周りを散策することができます。

 

野面積みの石垣や、

 

本丸に通じる門が遺っています。

 

非常時に城外に脱出するための抜け穴も

 

複数設けられていました。

 

池の左奥に建物が見えてますが、

文化会館の建物で、当時は海に建つ「北の丸」があった場所で、櫓ではなく砲台が設けられていたのだそうです。

 

お庭の散策が終わると、

 

係の方がお屋敷の中を案内してくださいます。

 

こちらは公式な接客の間だそうですが、びっくりしたのは壁紙です。

 

「氷割れに雪花」の模様だそうで、

モダンなお殿様だったのですね。

 

こちらの「梅の間」の壁紙もオシャレです。

お殿様の居室だったそうで、

 

このお部屋から眺めるお庭が一番美しいのだとか。

 

お屋敷の中にも、隠れ部屋であったり、逃げ道が準備されているようです。

 

係の方が詳しく説明してくださり、楽しく見学することができました。

 

続100名城スタンプも、こちらの「五島氏庭園」にあります。

残念ながら御城印はないようです。

 

「五島氏庭園」を出て、2つ目の信号の通りが「武家屋敷通り」として、当時の面影を残しています。

 

石垣の上に「こぼれ石」があるのが特徴です。

現在はこぼれないように接着しているそうですが、

侵入してきた時には崩れて音がなり、必要に応じて武器にもなるのだそう。

 

武家屋敷通りは、翌日にツアーでも立ち寄りましたので、また次回書きたいと思います。

 

“但馬の小京都” 出石 と 続日本100名城「出石城」

今回の城崎温泉旅行は、相方さんがサプライズで、豊岡の後輩の事業所を訪問するのが一番の目的でした。

2日目、無事その相方さんの目的を達成し、その後、今度はオババの目的の「出石城」に向かいました。

 

出石城」は、山頂の「有子山城」とセットで、続日本100名城に選定されています。

 

室町時代に、守護大名の山名氏によって、標高321mの有子山山頂に「有子山城」が築城されました。

織田軍によって落城した後は、織田系の城主が入ってきますが、

江戸時代に、小出氏によって有子山の麓に「出石城」が築城されると、「有子山城」は廃城となります。

出石城」には、1706年から明治維新まで、仙石氏が入封しています。

 

・・・と、そういうわけで、「有子山城」と「出石城」がセットになっているのですね。

 

出石城の築城とともに城下町が整備され、現在も「但馬の小京都」とよばれる風情ある街並みが残っています。

 

 

大手門脇の櫓台に建つ辰鼓楼(しんころう)。

これは明治14年に、大病を患った藩医から寄贈されたもので、日本最古年の時計台として、街のシンボルになっています。

現在3代目とのことです。

 

この辰鼓楼の左奥にある山の山頂をジ〜ッと見つめてください・・・何かありそうに見えるでしょ。

それが「有子山城」の城壁です・・・って分かるかなぁ。

 

辰鼓楼を先に進み、

谷山川にかかる登城橋と、

 

その先にある登城門。

どちらも平成6年に復元されました。

 

階段を登ると、二の丸の石垣があり、

 

さらに上に登った本丸跡に西隅櫓が建っています。

このように「出石城」は、本丸から三の丸までが、山の麓に階段状にあります。

 

西隅櫓は本来は存在しなかったそうです。

 

ですが、こちらの東隅櫓と一緒に、昭和43年に復元されました。

 

本丸を東に抜けると、出石城の鎮守社である「有子山稲荷」に続く鳥居が連なっています。

 

根性なしのオババは登ることなく下ります。

すると、何かしら“気”を感じる神社の境内に出てきました。

 

諸杉神社というそうです。

 

御祭神は、但馬の開祖と言われる天日槍(あめのひぼし)の嫡子だそうで、『古事記』や『日本書紀』にも記載があるそうです。

有子山城や出石城の城主からも厚く信仰されたのだそう。

 

さて、「有子山城」への道のりは、かなり厳しいとのことですので、最初から登城する予定はなく、この後は城下町を散策しました。

 

で、出石といえば、やっぱりお蕎麦を食べておかなくてはですね。

(お蕎麦屋さんは50軒ほどあるそうです)

 

豊岡からのタクシーの運転手さんオススメの「近又」に行ってみました。

 

出石蕎麦は、国替で信州上田から仙石氏が城入りした時、一緒に蕎麦職人を連れてきたのが始まりだとか。

出石焼の小皿に小分けされ、5枚1組で1人前というのが特徴です。

 

お店の方によると、まずはそのまま、次にお塩で、そしてオツユをつけて、あとはお好みで薬味や山芋、卵と一緒にということでした。

 

「挽きたて」「打ち立て」「茹がきたて」が信条だそうですが、久しぶりに蕎麦の香りを感じる美味しいお蕎麦をいただきました。

 

城崎温泉から出石までは、行きは楽して、豊岡経由でタクシーを利用しましたが、

帰りは1日1本(土日は3本)、出石から城崎温泉までの直通バスがあるとのことで、

バスの時間まで、

 

桂小五郎が身を隠していた住居跡地や、

 

家老屋敷などに立ち寄りながら、

 

“但馬の小京都”と言われる城下町の風情ある街並みを楽しみました。

 

観光センターで、続100名城スタンプを押し、

 

出石城」と(下から見上げただけの)「有子山城」の御城印を購入しました。