別府から南に50kmほど下ったところに臼杵市があります。
国宝の「臼杵大仏」で臼杵をご存じの方も多いのではないかと思います。
1562年、臼杵湾に浮かぶ丹生(にう)島に、「臼杵城」の前身である「丹生島城」が築城されましたが、
築城したのが、大名キリシタンとして教科書にも登場する大友宗麟です。
大友宗麟(=義鎮)は、家臣の反乱を避けるために、大分府内から臼杵に移り、丹生島を干拓して、城下町を築いたとされます。
城下には多くのキリスト教の施設が作られ、城内には礼拝堂もあったそうです。
この辺りについては、宣教師たちの記録にもいろいろ残っていて、
1586年に島津軍が攻撃してきた際には、城下や近隣の領民たちを城内に避難させたなどの記述もあるそうです。
島津軍の攻撃には、ポルトガルから入手した大砲も使われました。
(これはレプリカです)
大友氏の滅亡後は、福原氏や太田氏が入城し、三の丸を整備し、31基の櫓と7基の櫓門が設けられたとされます。
さらに関ヶ原の戦い以降は、稲葉氏が入城し、現在の姿になったようです。
こちらは二の丸跡の景観。
前回書きましたが、臼杵城址に到着し、最初にこの写真を撮っていたときに、
それまでの「界 別府」の写真を全部消去してしまったのです(涙
下から見えていたのが「畳櫓」。
現存櫓で、1階と2階の床面積が同じ「重箱造り」が特徴。
中門跡。
そこから見下ろす城下町。
二の丸への玄関口でもあった「大門櫓」。
会所櫓跡。
時代時代の石垣を見て回るのも楽しいですね。
公園のグラウンドの奥に見える緑の茂みが「本丸跡」になります。
本丸の方が二の丸よりも低く、最近の発掘調査では、大友時代には、本丸と二の丸が逆の位置(本丸が高い位置)にあったことも分かったそうです。
福原氏時代に入れ替わり、本丸が低くなった分、天守台の石垣を高くしたのだそう。
・・・と、グラウンドを挟んで本丸のことを書いていますが、
ご推察のとおり、根性なしのオババたちは、臼杵まで来ておきながら、
強い陽射しの中、グラウンドを横切る元気がありませんでしたぁ。
でありながら、しっかりスタンプを押して、
御城印を購入しました。