オババのトラベルジャーナル

社会生活からリタイアした有閑オババの隠居旅。ちょっと素敵なお宿に泊まって、のんびりお城や神社を巡ります。

続日本100名城「知覧城」と ”薩摩の小京都” 知覧の武家屋敷

知覧城は、平安時代末期に、

この地を統治していた知覧氏によって築城されたと言われています。

 

知覧は、

室町時代足利尊氏の命によって、島津家の分家の佐多氏に与えられ、

一時期、伊集院一族の配下になったこともありますが、

幕末まで、佐多氏が治めました。

 

シラス台地に造られたお城ということで、

その特徴を残す空堀なども遺っているようですが、

山登りの遺構探しが苦手な "エセ" お城ファンですので、

ミュージアム知覧」でのお勉強に留めました(笑

 

現在の知覧城跡の様子です。

 

これは当時の様子です。

 

模型だとよく分かります。

 

一国一城令」の中、薩摩藩は、領地を113の地区に分け、

その中心にそれぞれ、城のような役割を果たす「麓(ふもと)」を置いて、

 

鹿児島城を中心とした薩摩藩独自の外城制度を築きました。

その外城の一つが知覧だったというわけです。

 

知覧城自体は、一国一城令が発令される直前に、火災で廃城となりましたが、

知覧城の北側に「麓」が置かれ、佐多氏が治めました。

 

18代当主佐多久峰が、藩主の参勤交代にお伴した際、

京都の文化を持ち帰ったと言われていて、

現在の武家屋敷群は、”薩摩の小京都” として、

観光客にも人気のスポットになっています。

 

昨年訪れた時の投稿でも書いていますが、

本馬場通りも攻撃を受けにくいように、湾曲して造られていたり、

 

(これは昨年訪問時の写真ですが)

門の先には屏風岩といわれる切石があって防衛の役割を果たしています。

 

左右の石垣が、家の格式によって、玉石だったり切石だったりと異なるところも面白い点。

 

お屋敷の庭園が美しいことでも有名で、

7つの庭園が国の名勝に指定され、一般公開されています。

 

現在も子孫の方がお住まいのお宅が多いそうですが、

一般公開されている7つのお庭のうち、3つが佐多家です。

 

知覧城の山登りはしませんでしたが、スタンプだけ押してきました。

相方さんからは、お城めぐりではなくスタンプ集めだと揶揄されています。

日本100名城「島原城」

天草&島原の旅の最後の投稿になります。

雲仙観光ホテルをチェックアウトして、島原城を経由して、福岡に戻りました。

島原城には何度か訪れたことがありますが、

スタンプを集め始めてからは、初めてです。

 

島原城」は、「原城」に入城した松倉氏によって、

7年かけて、雲仙岳の麓に建てられました。

 

五重五階の天守に、三重櫓が3棟、平櫓が33基もあり、

 

本丸の広さは、名古屋城にも匹敵したとか。

(HPから写真をお借りしました)

 

石垣も4kmもあったそうで、

とにかく大きなお城だったようです。

 

明治に入って破壊され、天守は昭和39年に再建されたものですが、

遠くから見ても実に堂々としています。

 

でも、これだけの大きなお城を建てるために、

そうでなくても、厳しい年貢が取り立てられ、キリシタン弾圧や天災による飢饉で苦しんでいた農民に、

さらに課役されることになり、「島原一揆」が起こったのですよね。

最後には、天草の一揆と一緒になって、廃城となっていた「原城」に立て籠もりました。

 

一揆の責任を取らされて、松倉氏は断絶し、

その後は、松平氏や戸田氏が治めたようです。

 

海と

 

山に囲まれた

 

本当に美しいお城です。

 

ただね・・・この時は運が悪くて工事中で、

 

天守にも、民具資料館になっている三重櫓にも入ることができなかったのです。

 

横の売店で、100名城スタンプを押すことはできましたが、

御城印は、天守閣登城者限定とのことで、購入できませんでした。

 

そのうち、姫松屋さんの「島原名物 具雑煮」を食べにでも、再訪することとします。

続日本100名城「原城」

陸路だと、天草から雲仙までは、湾岸をグルッと回って、

NAVITIMEによると)300kmほどあり、4時間くらいかかります。

福岡からだと、天草と雲仙は反対方向で、

普通だったら同時に行こうとは思わない2ヶ所です。

 

それをわざわざ一緒にセッティングして、

そしてこの「原城」といえば・・・へへへ

 

今回の旅行は、まずこの「原城」があり、

「雲仙観光ホテル」もボチボチ営業しているみたいだから行ってみようか・・になり、

天草に新しく「天ノ寂」が出来たと雑誌にあったから一緒に・・・

と、「島原の乱(島原・天草一揆)」ツアーが誕生したというわけです。

 

 

原城」は、1599年から1604年かけて、キリシタン大名有馬晴信が築きました。

その後有馬氏は、1612年の幕府の禁教令で領民が弾圧されることに苛まれ、

自ら願い出て日向に移ったようです。

 

原城」は一時天領となり、その後松倉氏の支配となりますが、

松倉氏は、新たに巨大な「島原城」を築き、「原城」を廃城とします。

 

島原城」築城などによる重税やキリシタン弾圧、飢饉なども加わって、

天草の領民の一揆と島原の領民の一揆が一緒になり、

天草四郎を総大将に、廃城となっていた「原城」に籠城しました。

 

江戸時代最大の一揆の舞台となったわけですから、

島原の乱以降、「原城」は徹底的に破壊されてしまいます。

 

ということで、

知名度の高いお城ではあるのですが、

曲輪が残って整備されてはいるものの、想像力が必要な状態です。

 

平成30年に世界文化遺産登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の

構成資産になっています。

 

この付近に大手口があったようです。

 

この辺りが三の丸。

 

原城の中央部に位置して、一番広い曲輪の二の丸周辺。

 

あのあたりが本丸ですね。

所々に畑が見られますが、

登録前に、大掛かりな”開発” がされなくて良かったです。

 

当時の人たちもこの海の風景を眺めたのでしょうね。

 

本丸周辺には、石垣が遺っています。

本丸以外は土造りだったそうです。

 

本丸門跡。

 

最後まで籠城戦が行われた本丸跡。

多くの人骨や、十字架・ロザリオなどが出土したそうです。

 

美しい風景の中での凄まじい戦い・・・

 

幕府軍に内通した1人を除いて、老人、女、子供も含めて皆殺しだったとか。

 

続100名城スタンプが・・・・逆さまに押して押し直し〜。

 

御城印は・・・

自分で台紙にスタンプを押すか、華やかなものしかありませんでした。

日本100名城「湯築城」

愛媛の方には申し訳ないのですが、実は、今回道後温泉を訪れるまで、「湯築城」の存在を知らなかったのです。

 

旅行に出かける前に、訪れる予定の「松山城」の下調べをし、『日本100名城』の本にも目を通していたのに、

その前のページに書かれていた「湯築城」には気付きもしませんでした。

 

道後温泉に向かうタクシーで、道後公園湯築城跡に整備された公園だと知っても、

お城ってたくさんあるからなぁ・・・くらいにしか思ってなかったのですよね。

湯築城」の名前を知ったのも、その時が初めてでしたから。

 

松山城のロープウェイに乗る時に、こんな看板を見つけて、

 

5つも100名城があるなんて、愛媛ってスゴイなぁ・・・なんて思ってよく見ると、

えっ?湯築城もなの??・・・となって、

そのまま松山城からタクシーで湯築城に直行したという次第です。

 

お城というと、石垣があって天守閣があって・・・と、近世のお城を想像しがちですが、

湯築城」は、南北朝時代の1335年前後に築城されたそうです。

 

当時伊予国の守護であった河野通盛によって築かれ、250年以上も存続していたものの、

16世紀末の豊臣秀吉の四国平定の際に城を明け渡すことになり、

松山城が築城される時に廃城になったそうです。

 

湯築城の瓦などの建材が、松山城の建築に流用されたことも最近の調査では分かっているそうです。

 

詳細は資料館で知ることができます。

 

二重の堀と二重の土塁を巡らせた平山城で、お城の縄張りは、ほぼ完全な形で残っています。

 

綺麗な公園だなぁなんて思っていましたが、

 

イヤイヤ、これはどう見てもお堀ですよね。なぜすぐに気が付かなかったのでしょう。

これを見て、タモリさんのように「!」となりたいものです。

 

こちらはお城の裏門にあたる「搦手(からめて)門」で、道後温泉駅からも徒歩圏内です。

 

城跡は、昭和時代には、動物園だったこともあるそうで、

動物園が移転した後に、中世の遺物がいろいろ出土したのだそう。

 

出土物は資料館に展示されていて、資料館にはボランティアガイドの方も常駐していて、詳しく説明してくださいます。

 

これは猫の足跡が入ったお皿です。

お皿の制作中に、偶然猫の足跡がついてしまったようで、

 

御城印にはこのお皿が取り入れられています、

 

(予期せず)日本100名城スタンプもゲットできました。

 

日本100名城「松山城」

道後温泉での1泊目「道後御湯」で、2泊目のお宿まで荷物を運んでいただけるということで、

身軽になって最初に向かったのは「松山城」です。

道後温泉からは、タクシーで1,000円ちょっとでした。

 

今回の旅行で、オババが(相方さんの誕生日旅行にかこつけて)一番訪れたかった場所です。

現存12天守のお城ということもありますし、

オババが大好きな「ブラタモリ」でも取り上げられていましたからね(笑

 

松山城」は、関ヶ原の戦いでの功績を評価され、松山を治めることになった加藤嘉明によって築城されました。

 

1602年から26年もの歳月をかけて築城され、加藤氏の時代には完成しなかったとか。

 

標高132mの勝山山頂に本丸を置き、南西部の麓に二の丸と三の丸が設けられました。

松山城のHPから地図をお借りしました)

松山城の中枢は二の丸であり、藩主の御殿も二の丸にあったようです。

で、山頂の本丸は、主に倉庫などであったとか。

 

現在の天守は、江戸時代後期に再建されたもので、

現存12天守の中で、最も新しいのだそう。

 

二条城の28棟に次ぐ21棟の建築物が天守を含めて現存していて、国の重要文化財に指定されています。

 

山頂の本丸には、東雲口から、ロープウェイとリフトで登れます。

片道270円往復520円で、どちらも利用できます。

高所恐怖症のオババは、往復ともにロープウェイでひたすら山側を向いていましたが、

相方さんは行きはロープウェイ、帰りはリフトを利用していました。

 

天守閣(観覧は別途520円必要です)までは少し歩きます。

 

見事な石垣が続きます。

一番高い石垣は17mあるそうで、

本丸と二の丸をつなぐ「登り石垣」は、全国最大規模なのだそうです。

 

現存建築の「戸無門」

次の「筒井門」に導くために、あえて戸は作らなかったとも言われています。

 

これが「筒井門」で、こちらは再建されたもののようです。

 

「太鼓門」も再建されたものです。

 

本丸敷地内に入りましたが、山頂なだけに、瀬戸内海までが一望できます。

そういえば「ブラタモリ」では、荒れた湿地であった松山が、お城が築かれることで、どのように城下町が作られ発展していったかがテーマでした。

 

いよいよ天守群に近付いてきましたよ。

 

ドローンを使って上から撮影しないと全体像が分かりづらいですが、

天守や櫓とつながった連立式天守です。

ただし、小天守や櫓は再建されたものだそうです。

 

「乾門」側からの侵入を防ぐ「紫竹門」。現存です。

 

さぁ、いよいよ天守に入っていきますよ。

 

もうこの辺りは現存建造物に囲まれている感じで、

「ニノ門」だったり、

 

「三ノ門」だったり。

 

で、これは再建ですが、「玄関」。

こちらを通らず、

 

横から天守の建物内に入ります。

 

狭間や石落としも、現存ならではの雰囲気を醸し出しています。

 

ただ、江戸末期に再建されたということもあってか、階段は他の現存天守に比べると、非常に昇りやすいですね。

 

一番上の三階に到達しました。

 

右斜面の下に二の丸や三の丸が築かれたのですね。

 

やはり現存天守は見応えがあります。

 

100名城スタンプを押し、

 

御城印を購入しました。

 

続日本100名城「浜松城」

徳川慶喜の居館跡「浮月楼」で、

同行する専門家の先生と昼食のテーブルを囲んだ後、

家康をたどるツアーは、浜松に向かいます。

 

浜松城」を訪れる途中で、「三方原(みかたがはら)古戦場」に立ち寄りました。

 

上洛を目指していた武田信玄の2万5,000余の軍を阻止しようと、

1万1,000の徳川家康軍が激突した場所です。

 

現在は、碑が建てられています。

 

家康は惨敗し、九死に一生を得るかたちで浜松城に逃げ帰りましたが、

この戦に敗れたことが、その後の家康に大きな影響を与えたと言われてます。

 

そしてツアーが訪れたのが「浜松城」です。

 

浜松城」は、家康が武田氏の侵攻に備えるための本拠とするために築城されました。

元々は今川貞相の「曳馬城」があった場所ですが、

「曳馬→馬を曳く=敗北」で縁起が悪いとして、地名も含めて「浜松」に名称変更したそうです。

 

家康自身もこの「浜松城」が人生の大きな節目になりましたが、

家康が「駿府城」に移ってからは、次々と城主が入れ替わり、幕府の要職につく城主が多かったことから、

浜松城」は「出世城」と言われるようになったのだとか。

 

浜松城の見どころは、なんと言っても石垣ですね。

 

野面積みの美しい石垣がズズズ〜ッと続いているなぁなんて思っていると、

 

あらまぁ、こんな看板がありますよ。

ウンウン、引き抜きたくなる気持ち、よ〜く分かりますよ。でもダメですからね〜。

 

本当に美しい石垣です。

 

逆光でお顔がよく見えませんが、徳川家康の像。

駿府城の家康が大御所時代の家康に対して、

こちらは若き頃の家康像だそうです。

スラ〜ッとして、晩年の像とはずいぶんイメージが違いますね。

 

こちらは天守門。

明治6年に解体されましたが、平成26年に復元されました。

 

昭和33年に再建された天守閣。

元々は五重天守だったようですが、財政面のこともあって、当時の2/3ほどの面積での再建なのだそう。

横から見ると、天守台の大きさに対してアンバランスに、ちょこっと建っているような感じがしますね。

しかも史料が残っていないため、福井の丸岡城をモデルにしているのだそう。

 

・・・ということで、現存天守であれば頑張って登るのですが、

足場が悪いこともあって、オババはここでリタイア。

ツアーの皆さんと離れ、一人のんびり石垣を眺めながらバスに戻ります。

 

続日本100名城スタンプを押し、

 

御城印を購入しました。

 

日本100名城「駿府城」

専門家の方と一緒に家康の足跡をたどる「天下人と戦国時代の東海地方」というツアーに参加しました。

参加者は12名。

静岡駅に集合し、2泊3日で、静岡・愛知・岐阜を訪れます。

 

最初に訪問したのは、静岡駅からバスで5分ほどのところにある「駿府城」です。

 

駿府城は、家康が幼少時代に人質になっていた今川氏の居館があった場所とされています。

武田氏が滅亡すると、家康はこの地を手に入れ、1585年(天正13年)駿府城を築きます。

その後江戸城を本拠としますが、

1607年(慶長12年)には、天下普請によって駿府城を大改築し、「大御所」としてこの地で晩年を過ごします。

 

つまり家康は、人質時代を入れて、3度も駿府で過ごしたことになります。

 

駿府城は1635年に焼失しますが、平成に入って東御門や巽櫓などが復元されました。

 

平成元年に復元された巽櫓と、

 

それに連なる東御門。

こちらは平成8年に復元されています。

 

枡形になっていて、

 

櫓の内部は資料館になっています。

 

臨済寺の部屋を復元した「竹千代手習の間」なんていうのもあります。

 

本丸や二の丸の跡地は、現在は「駿府城公園」として整備されています。

 

家康の銅像

晩年の大御所時代の家康だそうです。

 

そして、この銅像の裏側では、天守台の発掘調査が行われています。

赤と緑のコーンで色分けされていて、天正期の天守台と慶長期の天守台を見比べることもできます。

 

説明図ではこうなっていて、

慶長期の天守台がいかに大きかったかが分かります。

 

奥の高いところが慶長期の天守台です。

 

石垣の違いも実物を見ながら確認できて面白かったです。

 

こちらは二の丸御門跡で、

 

奥に見えている屋根が坤櫓です。

 

100名城スタンプを押し、

 

御城印を購入しました。